必要だから使う。

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奇跡的に「英語科」へ進学した私に、衝撃的な出会いが待っていました。





その人を、仮に「ヤマダ先生」と呼びます。



ヤマダ先生は、新体操部の新しい顧問として、また保健体育科の教員として私が入学した年に赴任してきました。


小柄で、頭にくるくるとしたパーマをかけており、2つ3つおしゃれにピアスをつけ、スポーツウェアを格好よく着こなし、よく笑い、よく怒り、たまにホロリと感動の涙を流すヤマダ先生は、15歳の私に強烈な印象を与えました。


ヤマダ先生は、赴任する前年まで新体操のあまり根付いていない外国で数年間ナショナルコーチを務めていました。その関係で、外国から選手やコーチを招聘し国際大会を企画するなど、今までなかった新しい風が新体操部に吹き始めていました。


このヤマダ先生は、英語をごく当たり前に使っていました。


ごく当たり前、というのは、外国から来た選手に振付を教える時だったり、そのコーチ達とだったりです。
 英語でバシバシ指示をとばす先生を見て、部員同士でよくこんな話をしておりました。
「ヤマダ先生って、学生時代は英語の成績たいして良くなかったんだって。」
「エーーーッ!そうなの?」
「フツーに使えてるってすごいね。」



 必要だから使う。別に特別でも何でもなく、当然のことのようにコミュニケーションを取っている姿を見て、他の言語というのは、「生きる時にあったら便利なツール」くらい身近なものになりました。




ヤマダ先生だけではなく、入学したその学校は、特に「英語科」ではなくても何となく異国を感じる環境でした。在勤教諭の数名が米国や英国の国籍で、見た目も「長身かつ青い目金髪」のように分かりやすい先生達だったため、日常でそうした人々と接することに次第に慣れていきました。


校内では、皆、”必要だったら”英語で会話しているという場面が当たり前になるにつれ、ぼんやりと自分が目指す将来像が出来上がっていきました。


「何かスペシャルな分野を持つ」プラス、英語を話せる人。



英語が話せる、というのはどこか「あって当たり前の前提」で、人生に必要なのは「自分にしかできない特別分野を創ること、見つけること。」





自身も現役時代は国内の大きな大会を連覇し、オリンピックの強化選手として厳しいトレーニングを積み、さらにコーチとしての勉強もするために留学し、その学びを次の世代につないでいるヤマダ先生の存在はその将来像の実物にピッタリで、まぶしい憧れの存在でした。




こうして私の高校生活は、英語科の勉強もさることながら、この素敵な先生が率いる新体操部にまさに心血を注ぐ結果となりました。



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