やっと、自由に学べるわね。

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この言葉は、高校卒業文集の恩師からのメッセージです。


異国情緒あふれる自由な校風の中で出会った先生たちは皆、深く記憶に残っていますが、

20年以上経った今でもこの言葉を思い出すのは、その言葉と、書き残した先生に大きなギャップを感じていたからだと思います。


「あの先生が、この言葉を残すなんてなぁ。」


そんな心の驚きです。




”その先生”、とは、数ある英語科の教科の中でも「英語リーダー(Reader)」を受け持っていました。


仮に「キムラ先生」と呼びます。




ボブカットにハイヒール。ご年配、という表現など跳ね飛ばすような、よく通る声と愛のある厳しい指導で生徒達から一目置かれる存在でした。



「英語リーダー」とは、つまり長文読解に特化した授業です。教科書を予習して和訳していくことは当たり前ですが、いわゆる直訳だけでは許されず、”全体として見た時に、ここの一文はどう訳するのが最適か?”を問う、そんな先生でした。




「この文章が訳せないなんて、あなたはなぜこの科を受験したの。」



こんな言葉に涙した生徒は多かったと思います。



夏期講習でも、ラジカセ片手に意気揚々とエネルギー満タンで授業を進めるキムラ先生は、私にとって怖い先生でもありましたが、同時に、心強い存在でもありました。



誰が何と言おうと、自分の教える技術に自信を持ち堂々としている。



その佇まいには、「この先生についていけば間違いない。」そう思わせるオーラのようなものがありました。





そんなキムラ先生が、卒業文集に残した言葉が本日のタイトルです。



「今までは学校でのほんの限られた学習でしたね。これからが、本当の意味での学びです。」との前置きがあり、最後は「やっと自由に学べるわね。」と結んでありました。




名詞、動詞、副詞、形容詞、過去分詞、節、時制…。


こういった一つ一つを細かく取り上げ、辞書も調べず答えると、その怠惰な姿勢に手厳しい喝が入る。



「あなた。edがついてるからって、過去形ですって?辞書を引いてないでしょう。」
「違うわねぇ…。その前の文章と意味がどうつながるか、分かってないってことよ、それは。」




英文を細かく追及する姿勢のキムラ先生から、まさか「自由に」という言葉を聞くことになるとは思ってもみませんでした。しかも、”やっと”とまで書いています。




キムラ先生は、「授業の英語」がすべてではない、そう言いたかったのではないか、と思いました。それは自分の授業であっても、です。


実際の”現場”で”使いこなす英語”とは違うのだ、と暗に言いたかったのではないかと思います。




ある夏の暑い日、夏期講習が行われていた教室で、いつもは脱線などしないキムラ先生がこんな話をしてくれました。




「真っ白い爪。手のひらを返すと、そこも真っ白。でも他は全部真っ黒なのよね。」



先生が若かりし頃滞在していたアフリカでのお話です。日本にいると、皆同じような人種だけれども、今まで見たことのないアフリカ系の人と出会ったとき、あまりの違いに驚きすぎて泣いてしまったんだとか。


もっと聞きたいんだけれども…。クラス全員が脱線ムードになりそうになったところで、キムラ先生は当時を思い出したのか少し微笑み、すぐプリントに戻りました。


「さ、今日はパート2の始めからね。」





どうやら、世界というのは、面白そうだ…。



ぼんやりとですが、そんなことを思いました。




そうです。もしかしたら、「言葉」は大事だけれど、世界を知るには、世界を楽しむには、なんだか他にも鍵がありそう…。




黒板には、いつも「キムラ・フォント」と(生徒に)呼ばれる整った筆記体を正確に描き、毎日エネルギッシュに教室のドアを開け、一番やる気に満ち溢れているのは生徒より先生。



そんなキムラ先生を懐かしく思い出すと、今だからうなづける気がするのです。



「やっと」って、そんな意味だったのですね、と。

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